足羽第一中学校と足羽中学校(第二ではない)
福井市には「足羽中学校」と「足羽第一中学校」という2つの中学校があります。
この2校は隣接した地区にあるのですが、なにしろ名前が紛らわしく、互いに間違えられることもしばしばです。
しかしそもそも、なんでこんな紛らわしい名前になってるんだ?という話です。
創立はいずれも同時期で、周辺の村の中学校を統合する形で設立されています[1]。
昭和24年2月 酒生、上文殊、下文殊、六条4村の組合立として足羽第一中学校を設立
昭和24年3月 麻生津、下文殊、六条3村の組合立として足羽中学校を設立
いちおう足羽中の方がちょっと後にできているのですが、ではなおのこと足羽第二中でよかったのでは?
生徒の間では「当時の校長が第二は嫌だってごねたらしい」なんてまことしやかに噂されていたものですが、なるほどありそうななさそうな・・・
実際のところどうなんだ?と思い、図書館で資料に当たってみることにしました。
まず福井市教育五十年史[1]という資料にあたってみたところ、足羽第一中学校の項にこの2つの校名についての記述がありました。
・・・ここに紛らわしい校名を冠した二校が隣接し世人を大いに惑わすことになり現在に至っている。その間の事情を足羽町史(昭和51年刊)は以下のように伝えている。・・・
足羽町史[2]から該当部分を引用します。
足羽中学校と足羽第一中学校の創設については、下文殊村と六条村とが、それぞれ二学区に分れるようになるのでいろんな問題が生じた。下文殊村の、大土呂、半田、太田、二上、新開の五部落は足羽中学校へ、上細江、下細江、上河北、下河北の四部落は足羽第一中学校へ、六条村の江端、大町、別所、大島、上荒井の五部落は、足羽中学校へ、上莇生田、上六条、天王、小稲津の六部落は足羽第一中学校へと、両村がおおよそ半分ずつに分かれることになったのである。
それだけに、両校創設にあたった人々の対立意識は、まことに深刻を極めた。校名が紛らわしいということは、その間の事情をあきらかに物語っている。両校とも足羽という名に固執し、さきに東部を中心としたブロックが『足羽第一中学校』と命名した。われこそ足羽第一の中学校であるという考えからであったのであろう。さきに自分が『足羽第一中学校』を名のれば、もう一つは、『足羽第二中学校』と名のるだろうと期待したのである。ところが西部を中心としたブロックは、かんかんに怒った。『足羽』の名称を勝手に使ったとはけしからん。われわれの学校は、決して第二ではない。先方がその気なら、こちらは第一でも第二でもない、純粋の『足羽中学校』としようということになった。
こうして、第二中学校のない「足羽第一中学校」と、まことに、まぎらわしい名称の「足羽中学校」とが、同時に誕生した。そして、創立当時の対立意識競争意識は、その後も続いたが、これは、それぞれの中学校をよくするうえで、むしろプラスになったようである。
※下線等装飾は本記事執筆者による
なるほど冒頭の噂は概ね正しかったようです。
平成時代の一生徒から見れば、もはや対立意識やら競争意識やらのようなものは残っていないように感じましたし、逆に相互の交流のようなものもなかったのですが、当時の人々の思いが今も校名として残っているのは面白いですね。(くだらないといえばくだらないかもしれないけど・・・)
ちなみに足羽小学校というのもあるんですが、これまた全然違うところにあって、福井駅の西の方、足羽山のあたりにあります。現在の「福井市足羽」という地名もそのあたりを指します。一方、足羽駅は足羽第一中学校の近くに、足羽高校は足羽中の近くにあります。うーん。
[1]福井市中学校教育五十年史 pp.296-306(平成9年 福井市教育委員会編)
[2]足羽町史 pp.686-687(昭和51年 福井市足羽町史編纂員会(福井市足羽支所内)編)
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